天照大御神の大道

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▲黒住教教祖
黒住宗忠神御尊像
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師の神はいかがますらん拝みみれば
天皇(すめらみこと)の拝みます神
一宮の禰宜(ねぎ)の子として生まれ、孝に徹し、天照大御神の道を明らかにし、世人救済に努め、自らは謙虚世に所し、はき古した草鞋を拝み、泥んこになりながら土橋の穴を直すニコニコの好爺が、百世の師表として、天皇の尊崇を受けるに至ります。
教祖黒住宗忠(くろずみむねただ)神は、道をお説きになること三十七年、嘉永三年二月二十五日、七十一歳で御昇天になりました。
その後六年を経て、安政三年三月、『宗忠大明神号』を神祇管領吉田家より授けられ、文久二年二月には京都の神楽岡に宗忠神社々殿が竣工し、引き続き慶応元年四月、「(※)勅願所」を仰せだされ、同二年二月には、更に「神楽岡宗忠神社」として「従四位下」の神階が宣授されました。
即ち一宗一派の祖神として、信徒の奉斎するのみでなくて、実に、公に崇祀し給う神となられました。
当時京都に於きましては、御皇室を始め、二条、九条、三条、(維新の元勲にして、後に太政大臣に昇進された三条実美公が、教祖神に奉られた『神文』が現存しています。其他数名の公卿の方々のも保存されています)六条、柳原等の諸公卿の尊信極めて厚く、一般市民に至りましては、無上の崇敬と歓喜を以て深く帰依し、宗忠神社に参拝するもの、日々千人を下らずと云う勢いであったと伝えられています。
其後明治十八年、御誕生の霊地大元にも「宗忠神社(むねただじんじゃ)」が造営され、そして昭和四十九年、それまでの百六十年間本部であった霊地大元から壮大なお日の出を求めて黒住教本部を「神道山(しんとうざん)」に移り上がりました。
神道山は岡山平野を見晴るかし、遠く小豆島から瀬戸内海を眺める吉備の中山の東南に位置する、約十万坪(三十三万平方メートル)の丘陵地です。
吉備の中山は、古代の大和、出雲両文化に並ぶ吉備文化の中心地であり、太古より神山としてあがめられてきた聖域であります。
中央に吉備津彦命のご陵をはじめ、西北に吉備津神社、東北に吉備津彦神社が鎮座し、全山これ神々の山と申せましょう。
ここに「太陽の神殿」を祈って(※)大教殿が立教百六十年の秋竣工し、十月二十七日大元から御遷座のみまつりが執り行われました。
どの所も全国の信徒のみならず、宗派を超越して、一般の人々の厚く崇敬する所となっています。
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▲神楽岡宗忠神社
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※勅願所(ちょくがんしょ)・・・天皇陛下が、国、国民の平安を祈願される神社仏閣のことをいいます。
代々の天皇陛下は、いくつかの神社やお寺を 「勅願所」 にされていましたが、神楽岡の宗忠神社は孝明天皇が定められた ただ一つの勅願所で、幕末動乱のこの時代、日本と国民の平安を祈る祈願がたびたびなされました。
※大教殿(だいきょうでん)・・・その構造様式は日本古来の建築にのっとった四方切妻入母屋づくりで、五百坪、三百畳敷きの建物です。内部は、伊勢神宮から賜ったひのき材をはじめ、直径一メートル、長さ十メートルの大宮柱など、五千石の木材が使用されています。
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▲神道山大教殿
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大屋根の千木・鰹木、棟瓦は、岡山県重要無形文化財、備前焼作家・藤原建氏が八十トンの備前の土をつかって、製作した備前焼でつくられ、大屋根には、宮城県産出の玄昌石が板状に切られて十八万枚葺かれています。
大教殿のすそをはじめ周辺には、愛媛県石鎚連峯から運ばれた安山岩が使われています。
ほとんど一年中、鶯をはじめ小鳥がさえずり、陽光ふりそそぐ緑の霊地が神道山です。
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