五つの誠
一、祈りの誠
一、孝養の誠
一、奉仕の誠
一、感謝の誠
一、反省の誠 |
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黒住教副教主 黒住宗道 (黒住教機関紙「日新」平成17年12月号より
私たち黒住教では、この「誠」の重要性を人々に伝えるために「五つの誠」と称して教祖の教えを五項目に分類して教え、その実践を呼びかけています。
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“五つの誠”概説
誠ごころを養うことを中心にして、神に人にあらゆるものに徹底して誠を尽くされた教祖宗忠様の御教えを一言で表現すると、それは“誠の教え”です。平成二十六年に立教二百年という節目のときを迎える私たち黒住教では、「よりよく生きるための“五つの誠”」という実践徳目を掲げて、今あらためて教祖様の“誠の教え”を学びつとめようと呼びかけています。
キリスト教の「愛」、仏教の「慈悲」と同様に、わが国伝統の精神と本教の教えを象徴する「誠」を、「祈り」・「孝養(崇祖と孝行)」・「奉仕」・「感謝」・「反省」の五つの角度から学んで、教祖様の御心をわが心とするお道づれの皆様と、ともに誠を尽くしてまいりたいと念願するものです。
一、「祈りの誠」
祈りを重んじない宗教はありませんが、私たちは教祖様のご体験とそのお悟りに学ぶべく、毎朝日の出を拝む「御日拝」を最も神聖な祈りの時としています。天地自然に満ちわたる天照大御神のご神徳の中で“生かされて生きている”ことを実感するとともに、「神を拝むには、時刻に拘(かか)わらず、常に朝日に向かう心にて拝むべし」との御教えに示された“朝日に向かう心”を体得・体感するのが御日拝です。そして「祈りは日乗り」という御教えのままに、感謝と感動の心で日々まごころからの祈りを捧げる、とりわけ、病み、悩み、苦しむ“人のために祈る”ことが、自他ともに救われる真の「祈りの誠」であると私たちは信じています。
「日々に朝日に向かい心から限りなき身と思う嬉しさ」
「誠から祈れば神はあらたなり神の心で神を祈れば」
「誠には剣(つるぎ)も立たず矢も立たず火にさえ焼けず水に溺れず」
二、「孝養の誠」
ひたすら両親を敬い慕われ、親孝行がその人生の中心をなしていた教祖様がお悟りになった御教えは、万物の親神である天照大御神様への孝心でした。すべての命を生かそう育もうとする天照大御神様の御働きは、「神心は親心」との教えに示されるように、わが子の健やかな成長を願う親の心そのものです。となると、子供であるわれわれの姿勢はおのずと決まってきます。すなわち、親心に添うことであり、恩返しにつとめることです。そこのところを教祖様は「忠孝は誠の第一。忠孝なくては道は立たず」と御教え下さいました。ご先祖と自分自身の関係も同様の間柄であって、遥かなるご先祖のみたま様から亡き祖父母への思いも、常に子が親を敬い慕う心、すなわち「孝養の誠」を捧げるものでなくてはなりません。「先祖の祟り」とか「神仏の罰」などと称される現象も「親の躾」や「叱咤」の表れの場合が多く、前向きに受け止めることによってよき解決策が見出せるものと私たちは信じています。
「千早振る神の生み出す生みの子よ親の心をいたましむるな」
「天照らす神と人とはへだてなくすぐに神ぞと思ううれしさ」
三、「奉仕の誠」
あらゆる存在や働きを八百萬神と称え、その親神である天照大御神様の広大無辺なるご神徳は誰にも分け隔てなく与えられるという世界観は、私たちにとって多様性の尊重と共生・共栄、そして相互扶助の精神の大原則です。人と人、国と国、また人とその他の生命との係わり合いの基になるべき心情は、誠実さであり純粋に相手を慮る思いやりの心です。特に、「道はいかすこと第一」との御教えに示された“いかす(生かす・活かす)心”で救いや支えを必要とする人や社会を励まし勇気づけ、本来の元気や活力が取り戻されるように「奉仕の誠」を尽くすことは、私たちの社会的な使命です。
「誠ほど世にありがたきものはなし誠一つで四海兄弟」
「身も我も心もすてて天つちのたったひとつの誠ばかりに」
四、「感謝の誠」
キリスト者が「アーメン」の意味を尋ねられたときの返答も、また仏教者が「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」の意味を尋ねられた際の答えも、「有り難う」だったという話があります。世界のどの宗教も共通して説く信仰の原点は、大いなる働きへの感謝です。神道はそもそも自然の恵みへの素直な感謝と畏敬の念から生まれた素朴な信仰であり、その源流を汲むといわれる黒住教では、一般的には使われない「有り難う」の動詞形の言葉として「ありがとうなる」という表現を日常会話の中に用いてきました。非常に困難なことではありますが、たとえ災難に遭遇しても、その中に感謝の種を見出す思いで気持ちを前向きに切り替えてゆく「ありがとうなる」修行を日々の心得として重んじています。
「何事もありがたいにて世にすめばむこうものごとありがたいなり」
「有り難きまた面白き嬉しきとみきをその(供・備)うぞ誠なりけれ」
五、「反省の誠」
「誠意を見せる」という表現が「自らの過ちを素直に認めて謝る」の意味で用いられることがあるように、「誠」の大切な側面に「反省・謝罪」の念があります。懺悔・贖罪という宗教用語の存在から推測しても、「感謝の誠」とともに「反省の誠」はいずれの宗教にも共通する重要な徳目です。ただ、「人はそもそも罪深い存在」という“原罪論”の立場に立たない私たちには、「神と契約することで信仰が始まり、その契約を破ると厳しい咎めを受ける」という罰則がありません。神の許しを請うためというよりも、人皆に与えられた天照大御神のご分心の働きが、欲得や臆病など心の中に発生する雲霧や汚れによって妨げられる弱められがちであることから、常に自分の心を省みて自ら祓い清め、また祈りを通して祓い清めていただく“心なおし”のために、私たちは「反省の誠」が欠かせないのです。
「立ち向こう人の心は鏡なり己が姿を移してやみん」
「みな人のあしきはおのが姿なりよくかえりみよ清き心を」
「五つの誠」はあくまでも黒住教独自の表現ですが、神道が古来重んじてきた「誠」の意味を理解する上での一助になればと期待するものです。実は黒住教の教祖・黒住宗忠は「誠はまること」と教え、「誠」を宗忠の造語である「まること」という言葉で説き明かしています。
「まること」とは、天地自然が本来歪みや偏りのない調和の取れた「丸い状態」であるとともに、相互作用と循環の「丸い働き」であるという意味です。率直にいえば、宗忠の教えは、「誠の教え」というよりも「まることの教え」と表現した方が適切なのです。宗忠は、「誠ほど世にありがたきものはなし誠一つで四海兄弟(しかいけいてい)」と詠み、誠の普遍性を説きました。「五つの誠」に示した「誠を尽くす」ことは、全世界がバランスよくともに生き栄えるための道であると、われわれは信じています。
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